エースコンバット7 一周年となりました。

エースコンバット7はプレイもストーリーも難しくて、新人置いてきぼりな部分は一切評価できなかったけど、ずっと「すごいゲーム」だったというのが一先ずの評価。

 

 衛星軌道エレベーター、AI(無人機)、コゼットとエイブリル、ミハイ・ア・シラージとプレイヤー、英雄とプレイヤー、プレイヤーとAI、そして懲罰部隊の連中、特にタブロイド、カウント、AIの開発者であるシュローデル博士、ベルカ、オーシア、エルジア

 

 これらの要素が複雑に絡み合っていく、一つ一つは容易な二項対立によるストーリーは、プレイヤーの「空」の操作の忙しさと合わさって、私達に難解な「経験」を体験させてくれている、と思う。

 はっきり言って、「よいゲーム」と言うには程遠い。特に去年は比較対象に難度を超えさせる経験としての『SEKIRO』や「つまらない」を一蹴できる『デス・ストランディング』などあるので、どうにも全体的な「ゲームデザイン」の面で劣ってしまっている。

 だから「ゲーム」の部分を排斥してしまえば、内容はもっと単純に説明できる。単に目の前を流れる「ムービー」として描いてしまえばいい。

でもそれじゃあ「ゲーム批評」にならないんだよね。そもそもそんな風にゲームとストーリーを切り離して評価するということが、「ゲーム」の桎梏としてあった。東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』を知ってか知らずか(間違いなく意識しているでしょうが)、伊藤計劃はこう残している。

04-21,2008 本当にお話からしか語れなかったのかな

■ゲームと思想

 エロゲー(というか、ノベルゲーですか)が批評的な場で語られたのって、結局、お話だったからでしょ。

 とふと思ったのでした。

 たとえば、あくまでたとえばですけれど、ゲームのインターフェイスの変奏や、ゲームという言葉どおりにそこに内在するルールをプレイヤーがいかに受容するか、などといった方向を、(平凡ですが、まあ例ということで)生権力の話や環境管理型権力(これなんてまさにゲームデザインの思考ですからね)の話などに絡めて論を展開するとか、そういう可能性はいくらでもあったように思うわけです。なにせコンシューマーゲームでは「システム」をひとつひとつ設計し、世界(物語空間ではない)を一回一回デザインすることが多かったわけですから。ゲームの中で物語性に絡まない部分であっても、いくらでも批評的な話はできたはず(じゃあお前やれよ)。

 それがなぜ(一時期)エロゲーに代表されるノベルゲーだけが批評的なツールとしてもてはやされたかというと、それは結局お話だったから、単純に語りやすくとっつきやすく見えやすく何より「読みやすい(つーか読む媒体ですからね)」、「物語」だったからでしかないんじゃないか。

 あのとき語られたのはゲームじゃなく、あくまでエロゲーだったんだなあ。

(後略)

伊藤計劃、『伊藤計劃記録Ⅱ』、2015年発行)

 

 

 私は伊藤計劃のこの言葉に強く共感を覚える。まぁ実は伊藤計劃自身も「ストーリー」から「ゲーム」を切り離してしまっているのですが。しかしこれだけは間違いない。ゲームってやつは、いつも「ゲーム」性ってやつと「お話」のふたつに分けられて評価されてきたってことです。これは思想史的にみればとんでもないことですよ。「主客問題」やら「心身二元論」と比較したっていい。ようは「目の前にあるもの」と「手元にあるもの」の二つがつねに切り分けられて考えられてきたってことですから。

 そういうわけで「エスコン7」、とくに「ACE」シリーズを批評するならここから始めなけりゃならないというわけで。デリダではなくてハイデガーを基準にして初めなければならん。

 

 では失礼します。風呂へとゴーゴー