第63回群像新人評論賞 「当選作なし」  選評を分析してみた

 第63回群像新人評論賞に応募した。今年の4月の末日のことだ。

 応募した評論は『「紙」の上の自由としての比評論ー共同主観性と共同幻想論ー』

 以前に書いてあった通り吉本隆明廣松渉を土台にして、批評そのものを批評する腹つもりだった。転じて、批評の舞台を文字言語(正確にはその裏の)の一点と移し、その上で「批評」の範囲を文字通りの有りと有らゆる「もの」へと拡張するのが狙いだった。それはもちろんこれが批評の困窮を脱するただ一つのみちすじであると考えたからである。とはいえ、議論はかなり性急であったし自分で捻り出した文章はヘタ、そも題材がひとを選ぶものであるから、期待はほとんどしていなかった。ただ自分が出した問題と結論に関しては大いに自信があったため、来年度に向け受賞作とその選評を目にするために発表号を手にしたわけである。

 

 12月6日、ひとつき遅れで手にした「群像12月号」の該当ページには「当選作なし」とあった。

 

 なるほどそういうこともあるのか、と落ち込まない準備をしていた胸空が空を切りつつ視線は左下、並んでいた候補作にはもちろん私の名前はなかった。そしてこのときようやく、公式サイトに受賞作が載っていないことや調べても出てこないことに合点がいったのである。当然だが当選作がなくても選評はある。

 そして選評を読み出してすぐ「ああこれはダメだな」と思ったのだ。

 

 なお自分の作評が選ばれなかったことに対する納得ではない。群像新人評論賞の選考委員とその編集部への失望のほうだ。

 

1、 最初の選評 東浩紀の文はこう始まる。

 

今回の選考は残念な結果に終わった。全体的に低調だったのだが、とりわけ評者が問題だと思ったのは、候補作五つのうち作品論が二つだけだったことである。残り三つは批評についての批評、いわば「メタ批評」で、しかもひとつは実質的な柄谷行人論で、もうひとつはド・マンとデリダ。つまりは両方とも『批評空間』系の話題であり、あまりに多様性がない。編集部によると、作品論の少なさは二次選考の段階で明確だったとのこと。今回から選考委員に入った山城むつみ氏もぼくも(そして前回より引き続き委員の大澤真幸氏も)、かつて『批評空間』で執筆していたことがある。そのような「偏り」が「批評についての批評」ばかりが集まるこの結果を生んだとすれば、選考委員のひとりとして忸怩たるものがある。(東浩紀{2019}、選評、『群像』、第七十四巻第十二月号、147)

 

 なるほど、本第63回群像新人評論賞では作品論は少なく、逆に多くの「メタ批評」的な批評が集まったという。私の批評論もまたそれに漏れず、他の評論のなかに埋もれるかたちになったのだろう。この状況について私は悲観的にはならない。むしろ他の応募者もまた批評の現状を困窮と定め、これを内側から食い破るべく、自己言及や批評論的方法論の模索によって打破しようとしているのならば、私にとっては問題意識そのものが誤りではないことの証左なのである。

 だがこの状況は東氏においては思わしくないようだ。東氏はこうした作品論が減少し「メタ批評」ばかり集まる結果を自身を含む選考委員の筆歴が原因であると考え、編集部は進んでか尋ねられてかはわからないが、作品論(作品評論)が明確に少なかったと東氏に答えている。上記の問題意識をそもそもの問題としておらず、これでは批評そのものについての評論よりも作品について書かれた評論のほうが優れた批評であり、なおかつ選考委員および編集部もそうであることを望んでいると言っているようなものではないか。

 なるほどしかしながら東氏の考えの通りに、選考委員3名の求心性によって新人賞を取るべく応募者の多くがたまたま偶然「メタ批評」を選択してしまい、本来きたるべき作品論を除外してしまったというのであれば、東氏の「残念な結果」という心中および絶望を察するにあまりある。

 そしてそれは問題意識として明確であれ、本ウェブログの題にもあり由来であるように『批評空間』の存在を知り、東氏のここでの筆歴を知っていた私にとっても無視するべき問題ではないことも確かである。しかしながら、私の理論の中心人物がおそらく本件と無関係である吉本隆明廣松渉であるということ、それによって歯牙にもかからない評論であろうと「批評の批評」において多様性を担うものであろうことは、ここに明記しておいてもよいだろう。

 こうした東氏においては判断を留保すべき、批評題材の優勢性と「メタ批評」によって批評の困窮を打破しようとする評論に対して待ったをかける状況は、しかし続く大澤真幸氏の選評によって相貌が明らかとなるだろう。そして大澤氏の絶望は、東氏のそれとは種類が異なり、そして深いものなのである。

 

2、 続く選評 大澤真幸の文から抜粋しよう。

 

非常に残念な結果に終わった。新人評論賞が新人文学賞から独立して五回目にあたる今年は、新人賞だけではなく、優秀賞もだすことができなかった。 (中略)

/ かつては文学賞の中に組み込まれた評論部門を別の賞として独立させたのは、編集部にある危機感があったからであり、選考委員もそれを共有している。文芸批評が急速にその創造性を失いつつあるように見えるのだ。実際、刮目に値する新人はなかなか現れない。従来のスタイルの文芸批評が、何らかの原因で終わりを迎えつつある。ならば、文芸批評などやめてしまえばよい、自然死するにまかせておけばよい、と言う者もいるだろう。だが、そうはいかない。詩や小説などの文学作品と批評とはセットになって、<考える>という営みは完結するからだ。文学作品と批評とは車の両輪で、どちらを欠いても他方はその価値を失うことになる。批評にとって、優れた文学作品が前提になることは言うまでもないが、文学作品の方もまた、批評というジャンルをもつことで、自らが発火させた<思考>がどのような意味で普遍性をもつかの自覚に至ることができるのだ。

/ 新人賞も優秀賞も出なかったということは、今回の応募作品は、批評のこうしたクリティカルな状況に対応するには力不足だった、ということを意味する。最終候補作を読みながら、私はあらためて、この危機にあっては、「批評の批評」というやり方はよほどのことがない限り成功しない、と思った。文芸批評はこれまで、それなりの成果を蓄積してきたわけだが、そうした従来の批評を、そこに含まれているまさに同じ概念や態度をもって論ずると、批評が現在入り込みつつある隘路に自ら進んで深入りすることになる。批評への批評は、従来の批評の中には用意されていない圧倒的に斬新な視角をもたない限り、うまくはいかない。

/ それに対してーー私が思うにはーー有望な道は二つある。一つには、原点への回帰ということである。批評は、人をさらなる思考へと駆り立て、論じないではいられない、という作品の出会いから始まるはずだ。作品論や作家論こそは、批評の原点である。もう一つは逆に、フィールドの拡大だ。従来の批評の主題にはほとんどならなかったような領域に対しても、批評のまなざしを向ける、というのがその主旨だ。柄谷行人が、『資本論』を批評的に読んだときに人は驚いた。それと同じように、批評そのもののフィールドを拡大していくような自由度が要請される。(大澤真幸{2019}、選評、『群像』、第七十四巻第十二月号、149-150)

 

 ここでは大澤氏の現在の比評にたいする所見が書かれている。追って読んでいこう。

 ひとつ飛ばしてまず述べられているのは、選考委員が編集部とともに、「文芸批評が急速にその創造性を失いつつある」という危機感を共有しているという点である。何も驚く必要はない、選考委員ならびに編集部もまた、批評の現状を困窮であるとみており、そのための対抗策が必要であることを認識しているのである。ただ本件においては、その危機感は文芸批評が失われることにのみ注目されている。すなわち群像の選考委員および編集部において、批評とは文芸批評のことへと一律しておかれている。大澤氏は文芸批評が失われる危機を、文学との抱き合わせによる車輪に例えて、どちらも欠けてはならないものであると強く主張している。

 続く段落にて、本新人賞において当選作も優秀作も出なかったのは、応募作が先に述べた批評の困窮という「クリティカルな状況に対応するには力不足」だったと述べられている。とくにここでは「批評の批評」という方法論が、「よほどのことがない限り成功しない」ものとして、特に「従来の批評」を批評し論ずるという方法が「現在入り込みつつある隘路に自ら進んで深入りする」ものとされている。ここで書かれていることにとくに異論はない。問題はこうした「難易度の高い」方法論の代替として提案される次の段落での方法論の提示その提示の方法にある。

  大澤氏は「メタ批評」ではない方法として「二つ」の方法を挙げている。一つは従来の批評、大澤氏の言葉を借りるならば「原点への回帰」としてさきの文芸批評、特に「作品論や作家論」へと立ち返ることである。そしてもう一つは「これとは逆に」批評そのもののフィールドつまり範囲を拡大し、これまで批評の対象とならなかったものへとむけることで、批評そのものを自由度を与えるということである。大澤氏はこのどちらかの方法によって、「批評の批評」ではうまく立ち行かなかった批評の困窮を打開する手立てが与えられ、同じく文芸批評においても(これは前者においてはほぼ同義だが)創造性が盛り返すことになると考えている。

 ところで大澤氏が提案するこの二つ、もともとは同じ「一つ」の方法論とは考えられないだろうか。批評の原点として提示される作品論や作家論に対して、「これとは逆に」と銘打たれ範囲の拡大化による批評対象の増大ではなく批評範囲そのものの拡大性に軸足がのる方法論。ここでは本件の確認も含めて大澤氏のWEBサイトから次の文を引用させていただくことにする。

 

大澤 シンギュラーなものの中にある普遍性を引き出すことこそ「考える」というしぐさであって、それを言葉にしていくという作業が一方である。それは日本でもどこでもあるわけです。
このことを踏まえた上で、他方で、極東の島国というか、非西洋のどこでもある時期以降、考えるということは西洋の思考様式を輸入しながらなされてきた、という面がある。それは押しつけられたわけじゃなくて、我々は、西洋の中に蓄積されてきた知の伝統というものに惹かれて、すごく魅力を感じてきたのです。それは否定しがたい。
だから我々はそれを輸入しなきゃいけないと考えて、輸入を専門的に担った人たちがかつてたくさんいたし、今でもいる。その中に哲学研究というのも枢要な一部として入っているわけです。他方で先ほど言った、シンギュラーなものからものを考えていく仕事をした人がいて、分業みたいなものができてしまった。でも本来は分業であるべきじゃない。例えば小林秀雄ベルクソンを輸入しながら、しかし同時にある固有の対象について考えるということをしてきたわけです。しかし、両面を区別することなくなしえた人は、小林とか、あるいは大森荘蔵とかごく一部だったということは否めない。
僕が今危惧するのは、その両面はそうはいっても、ある時期まで結構融合していたのに、近年その二つが大幅に分離していることです。哲学研究は今でも盛んに行われているけれども、本当に「研究」なんですね。他方で、西洋やその他の哲学を咀嚼しながら、それと対決するという作業を全く抜きにして批評的なものが出てくる。

(略)

熊野 ところでごく普通に考えて、この三人の取り合わせは、文芸誌の選考委員として異様なわけです。もちろん背景は知りませんけれども、たぶん対外的にはものすごいショック療法に見えますよね。ただ、これは恐らく三人が一致できると思いますけれども、文学作品を対象にした、いわゆる文芸評論を拒否するつもりは全くない。先ほどの大澤さんの言葉を転用させてもらえば、そこに単独なものを介して普遍性に向かう鋭い思考の回路が存在するならば、すぐれた評論たり得るだろうし、僕らはそれを十分に楽しむだろうと思うんです。
大澤 結果的に言えば、今までより間口が広くなったと考えていただければいいんですよ。もちろん、いわゆる狭義の文芸評論だっていいわけです。ある種のシンギュラーな出来事性とか、体験とか、霊感とか、そういうものから普遍性へと向かっていくのが思考というものです。かつてはそれは文学と非常に深く結びついていたので、文芸評論ということで思想の主要な部分をほぼカバーできた時期があるんだけれども、だんだん、必ずしも文学と結びついていないところで、やらなければいけなくなっている。文学に触発されて始まったっていいし、ほかのところから、例えばある出来事について考えたものから始まってもいい。ある普遍性へと向かっていく一つの思考様式がそこにあれば。(略)

鷲田 (略)
ある言葉でもいいし、出来事でもいいし、どんなものでもいいと思うんだけれども、その小さな穴や裂け目を潜り抜けたものを、既成の座標軸に位置づけるのではなくて、別の領域にいわば斜交的につなげていってほしい。実はこの小さな感受性、あるいはこの小さな出来事のこの表現はこんな意味を持っているんだ、こんな新しいビジョンにつながっているんだということを見せてくれるのが評論かなと僕は思っているんです。一つ一つの文学作品というのは、むしろその小さな出来事をその人ならではの表現で描いている。熊野さんが言ったときめき、ワクワク感というのを僕はそんな風に理解しています。

鷲田清一さん、熊野純彦さんとの鼎談「批評とは何か」 ー 大澤真幸オフィシャルサイト』

http://osawa-masachi.com/?p=1669 (2019年12月8日 最終確認日)

 

 上記の文は、2014年11月号『群像』に掲載されているものであり、当時まだ評論賞が新人文学賞の一部門であったころに選考委員に就任した熊野純彦氏、鷲田清一氏、大澤氏の三者による会談の様子である。そしてこの3名は新人評論賞として独立する際選考委員として、昨年度2018年までの4度の評論賞の選考委員を務めたのだった。最初の東氏の選評の引用通り、今年度は大澤氏のみが選考委員を続任され、他の二名は入れかわっている。

 さて上記の通り、本鼎談が翌年度より独立することになる評論賞の、その選考委員が顔を合わせて行う対談、それも『「批評とは何か」』というとてもクリティークなーー批評として「批評の批評」というかたちのーー鼎談は、3名の(文芸)批評に対する考えを相互に確認し合う場であったとともに、3名おのおのの批評に対する決意表明であったことは明白である。

 ここで大澤氏の発言に着目してみよう。大澤氏は熊野氏の「文学作品を対象にした、いわゆる文芸評論を拒否するつもりは全くない」という発言に続く形で、「今までより間口が広くなったと考えていただければいい」、「文学に触発されて始まったっていいし、ほかのところから、例えばある出来事について考えたものから始まってもいい。ある普遍性へと向かっていく一つの思考様式がそこにあれば」と述べている。このときの後者の発言、「文学に触発されて」または「ほかのところから」「ある普遍性へと向かっていく一つの思考様式」とは、まさに大澤氏が選評にてあげた「二つ」の方法論を総合する視角であり、大澤氏においては「思考様式」が、批評論的方法論として結実しているのである。これは熊野氏が大澤氏の発言を借用して述べている「そこに単独なものを介して普遍性に向かう鋭い思考の回路」という発言よっても、硬質な批評論的方法論が大澤氏にあることがわかるのである。

 ここに誤解はない。大澤氏は間違いなく自己流の「批評の批評」とでもいうべき批評論的方法論をゆうしている。このことは5年前の大澤氏の発言をみたいま、現在の大澤氏の選評を見返してもはっきりとわかる。私が特に異論はないとした、「批評の批評」について「力不足だ」と評した部分。「批評が現在入り込みつつある隘路に自ら進んで深入りすることになる」「批評への批評は、従来の批評の中には用意されていない圧倒的に斬新な視角をもたない限り、うまくはいかない」という表現は、氏のうちである程度の批評に対する<考え>がなければ、その展望を想像することすらできないだろう。これは大澤氏の能力自体が、委員となった5年前と比して大きく変化していないということであり、ここに異論は一切ないのだ。

 にもかかわらずである。大澤氏は続く段落においてこうした「メタ批評」が持つ問題を避ける意味合いで「二つ」の方法論を提示する。「二つ」の方法論が、もともとは「一つ」の、「メタ批評」的な氏自身の方法論であったににもかかわらず。大澤氏は、わざわざ、それも無意識的に、自身の方法論を分解して私たちの前に提示する。今度はその提示方法について改めてみてみよう。

 大澤氏は、自身の方法論を「ーー私が思うにはーー」と始める。これは、「文学作品と批評とはセットになって、<考える>という営みは完結する」という<考える>や、特に5年前の大澤氏の「思考様式」に対応する。まるであたかもいま突然おもいついたかのように提示することで、大澤氏は自身の<考える>ことから「メタ批評」性を脱臭してしまうのである。そしてこの脱臭となる一つの思いつきが、批評を「原点への回帰」させることである。「批評は、人をさらなる思考へと駆り立て、論じないではいられない、という作品との出会いから始まるはずだ」という、情動的でいま突然思いたったような文言によって、大澤氏は作品論や作家論に対する驚きを、素朴な出会いとして誘う。だがこれによる「原点の回帰」として、文芸批評のそれも作品論や作家論をおくことがまず懐古的かつ文芸中心的な権威主義なのである。こうしてしまえば、「もう一つは逆に」と銘打つことで駆動する、原点から拡散する批評の範囲の拡大は御しやすくじつにかんたんなものになる。「従来は批評の主題にほとんどならなかったような領域に対してもまなざしを向ける」と言いながら直近の例でなく、「もう何十年も前のことだが、柄谷行人が、『資本論』を批評的に読んだとき」という過去の事件、著名な批評家と書物の例を持ち出すことが、すでに疑わしいだろう。

 この件について次のような問い「大澤氏は「メタ批評」的な批評の多さとそれよって現状の困窮を打破することの難しさを憂い、あえてこうした文言を使用して、批評的なものをとりもどそうとしたのではないか」と考えてみる。ただこれには多くの矛盾が付き纏う。まず大澤氏ほどの、それも「メタ批評」についてもあれほどの考えを持っていた氏が、あえて、時代錯誤であり今ここで行われているように批難をあびるような方法論をとる、その必要性に欠けている。大澤氏であれば、5年前と同様の文言と批評論的方法論にて、そうした「メタ批評」が増えたことを窘めることは可能だったはずだ。

 もしそうした必要性に駆られたというのならば、それは選評にある「文芸批評が急速にその創造性を失いつつある」「危機感」というものが、氏の悟性を硬直させるほどのものだったというに他ならない。大澤氏は、間違いなくその能力を保管できておきながら、思考停止に陥り、あのような文章ーーそれも平易でありながら適切に「メタ批評」的な部分を脱臭するーーを書き上げたのである。まるでメタ批評的なものに対するアンチ批評的、あるいは自己言及に対する自己消去的な「思考様式」の駆動ではないか。

 いったい大澤氏になにがあったのか。と問わねばならないが、これは大澤氏だけの問題などではないはずだ。問題の時間的なそもそもの始まりは、大澤氏の選評におけるひとつの誤りにある。

 5年前の大澤氏の鼎談「批評とは何か」、この対談が群像新人賞評論賞が独立するに前にあって、熊野氏そして鷲田氏との批評に対する考えを相互に確認する場であり、批評に対する決意表明だったということは先に確認したとおりである。そこで再びみてみるとどうだろう。熊野氏の「この三人の組み合わせは、文芸誌の選考委員として異様なわけです」や「文学作品を対象にした、いわゆる文芸評論を拒否するつもりは全くない」、大澤氏の「今までより間口が広くなったと考えていただければいいんですよ」や「文芸評論ということで主要な部分をカバーできた時期があるんだけれども、だんだん、必ずしも文学と結びついていないところで、やらなければいけなくなっている」、鷲田氏の「ある言葉でもいいし、出来事でもいいし、(略)その小さな穴や裂け目を潜り抜けたものを、既成の座標軸に位置づけるのではなくて、別の領域にいわば社交的につなげていってほしい」など。

 これらの発言を考慮してみると、評論賞部門が新人文学賞から独立するにあたって熊野氏、大澤氏そして鷲田氏が批評についての考えを相互に確認して行った決意表明は、総括すれば、既存の文芸批評を受け入れる姿勢はそのままに、けれども(文芸)批評がそれ以上へ、それ以外へと向かい繋がってゆく普遍性へとゆく「何か」となることを楽しむ、ワクワクするといったものだろう。これが鼎談「批評とは何か」における選考委員の、五年前の答えであったはずだ。

 そしてこれは大澤氏の選評にある、「かつて文学賞の中に組み込まれていた評論部門を別の賞として独立させたのは、編集部にある危機感があったからであり、選考委員もそれを共有している」という場面とは、明らかに異なっている。ここにおける「危機感」である文芸批評の創造性の衰退も、5年前は一切考慮されていないどころか、むしろ大澤氏自身の発言に曰く「必ずしも文学と結びついていないところ」にて批評は普遍的なものに向かわねばならないものとして、評論部門の独立は歓迎されていた。現在の大澤氏が回想する評論の独立が文芸批評という一律の批評への危機感なのに対し、5年前の大澤氏が望む評論の独立は批評が多元的になり普遍的なものになる開放感なのである。

 ここに、問題がある。大澤氏はなぜ、嘘をつくかたちになってまで、批評の困窮を「文芸批評の創造性」の困窮と一意化して「危機感」によって際立たせようとしたのか。いな、大澤氏はなぜ、自身の過去を改ざんするほどの、批評の困窮を「文芸批評の創造性の問題」と追いこみ考えてしまう「危機感」をもってしまったのか。この問題に答えることができなければ、あの「原点へと回帰」させる、懐古的(伝承的)な権威へとひとを揺り戻す自己消去的な「思考様式」が駆動することその他について、なにも答えることはできないだろう。そしてこの自己消去思考様式、メタ批評にたいするアンチ批評的なものが、批評論的方法論によって存在論的にあると認められることは、たぶんおそらくは、現状の批評の困窮と無関係なものではないのである。

 そしてこれは再び提言するが、大澤氏ひとりの問題であるとは思えない。二つの選評を読むいま、東氏、大澤氏の両名のうしろにチラつく編集部に上記の問題があることもまた然りである。東氏の選評にある「編集部によると、作品論の少なさは二次選考の段階で明確だった」という言による作品論(大澤氏においては明確に文芸批評)を批評対象として優勢にみるながれ。そして大澤氏の選評にある「危機感」が、そもそも「編集部にある危機感があった」という言であり、上記の大澤氏の過去のいわゆる「記憶違い」について、部署に責任の所在が委ねられるにもかかわらずその誤りを訂正させていないなど、この点は明らかである。

 私はこうした、尊敬すべき「知」の巨人たちや伝達を担う同様の「知」性ある人々があるとき突然に、足を引っ張られ、転倒する事態についてひどく見覚えがある。ハイデガーのナチズム加担などがいい例だろうが、私はやはり、吉本隆明廣松渉がみた日本近代の太平洋戦争中‐後のひとびと、戦中には文学者、知識人や詩人などが諸手を挙げて「原点」を讃美しナショナリズムに走り、最後はーー何事もなかったかのように歩き出したあの状況である。私は、やはりこの状況がこわい。そしてその種類や規模が違えど、大澤氏が陥った上記の問題、過去を改ざんし、悟性を麻痺させて「原点へと回帰」しようとしてしまうそれは、どうしても同じ光景見えるのである。

 

 

 本第63回群像新人評論賞がなぜ、文芸批評とくに作品論を批評題材として優先させようとしたのか。そして批評の困窮を「メタ批評」によって内側から突破しようとすることに対して、新規の批評者全体の傾向の把握としてではなく、悲嘆が先行してしまったのか。ここまでを見た今、この疑問について充分な答えをだすことが可能である。まずこの二つの問題は、別個の問題としてあるのではなく、連関のうちにある。

 この「一つ」の問題に対して答えを出すとそれは、批評そのものを文芸批評とくに作品論を前提とする(したい)運営委員ならびに編集部に対して「批評の批評」は邪魔になるから、または「メタ批評」をまず運営委員ならびに編集部が(思考)停止させなければ、批評それ自体となる批評そのものに文芸批評とくに作品論を選定できないからである。答えが二つあるのではなく、どちらが先行し後行するかという答えである。

 群像新人評論賞の選考委員ならびに編集部は、自身のこの問題にどう対処するのだろうか?いっそのこと先んじて応募される作品を文芸批評に限るようにしたいのが、運営としての本音ではないだろうか。とはいえこれには「では文芸批評=(文学)とは何か」という問題がついてまわるのである。テリー=イーグルトン氏なら笑ってくれるのではないか?

 さらに悪手ではあるが、いっそなにもせずこのままということもありえるだろう。応募のポスターでは「評論のジャンルは問わない」(『群像』、第七十四巻第十二月号、441)と言っておきながら、実際ないぶでは文芸批評のそれも「ぼくたちが納得できる批評の方法で、かつ結論を」出すものを優先するのである。上記の問題と合わせて、国内唯一つの評論賞が聞いてあきれるしかない。

 最善手は、通常通り自浄作用を発動させることだ。「批評」と名前がつくのであればなんでも受け入れる。ペケをつける。マルをつける。応募内容に偏りがあるのならば分析する。

 来年度も応募する気はあるのだが、いかんせんこれまでの選評を分析してみて気が変わってしまっている。特にこのままでは「批評の批評」はその時点で評価がマイナス判定であるだろう。おかげで方針転換を余儀なくされた。かといって文芸批評を送るのは正直いって気に食わない。向こうが好きにするなら私も自分の『「紙」の上の自由としての比評論』の続きとして「ゲーム」(エースコンバット7あたりだろう)の批評でも送ってしまおうか。キングのスリーカードを出すみたいでかなりつらいが。

 

 

 

 

 自分で立てた問題について結論は出した。 

 ところで選評を分析するべき選考委員にはまだ一人、山城むつみ氏が残っている。

 山城氏の選評『「批評の言語」さえあれば』には、他とは異なり批評論的方法論を核として所持していることはわかるが、分析に時間がかかるうえ自信がもてない。「批評の言語」を「虐殺の言語」という観点と並列に立てて、伊藤計劃の『虐殺器官』から逆接的に氏の批評論的方法論を模索することも考えたが、やっぱり時間がかかるだろう。

 山城むつみ氏への選評はまた後日に回させていただきます。正直に申し上げまして、彼も実は「絶望」していたと分析でわかったばあいはこちらの敗北です。